一度死んだ者

ある日の朝、僕は一度死んだ。

生きる実力を失った、とも言えるだろうか。


「生きていない」僕にはもちろん形が存在していなかったようだ。誰も姿を認識してくれない。足音を持たない透明な物体はふらふらと流浪し、長い時間が過ぎた。


人はいない。道もない。歩む力すらもない。

だが、そこに非情にも姿は見えぬ感情が残り続け、苦しみを覚えさせ続けた。


そんな僕の視界に入り続けたのは「嘘」や「無」「夢幻」だけであった。


幼きある時、「天国と地獄っていうものがある。ここは死んだ後にどっちかに行くか決まる。だから良い子にしなさいよ。」と、どこかで聞いたことがある。


どうやらここは地獄だったらしい。

「何もない地獄」とでも呼んでおこうか。

何度焦ったことだろう。何度もがき苦しんだことだろう。だけど、この姿では一歩すらも進めずに地獄を進むことすらもできなかった。


このままではずっと動けないままである。頭を抱え考え続けた。


ここは死んだ時に訪れた場所だ。生きることをしなければずっと死んだままで、この世界は地獄であり続ける。


骨が折れても血を流そうとも、生きる力、生きる未来を作ることを決心した。

すると不思議なことに、「もう戻らない」と思っていた「私の足音」が帰ってきた。

星野源「Cube」に触れる。

星野源が新曲「Cube」を配信リリースした。

映画の主題歌となっているこの曲は破壊的なビート、サウンドで前衛的な音楽だと感じる。


アルバム「Pop Virus」以降どっぷりファンになった私だけれど、「Cube」を私の中で認めるかどうか、非常に悩んでいる。


そもそものテーマが確かに「理不尽・絶望・愚かさ・行き場のない憎しみ」である原作映画である為に仕方ないことであるのだが、非常に人が吐いた息を直接吸った時のような生(なま)の臭いがする。


もちろんそれを土台にした爆発的な感情、それに伴う力は存在しているのだが、

この曲を聴き続けると自らの黒い感情が育ち、それが力に変わるのではないかと恐れる。


「YELLOW DANCER」以降、彼の音楽には必ず光る楽しさが存在した。「生きる楽しさ・音が作る楽しさ」「地獄を楽しむ活力」だ。

これがあって私はようやくこの地獄の世の中に中指を立てながら笑い、人の声を知りたいと思えた。


果たして私はこの曲を吸い込んでも良いのだろうか。

もしくは数年後、この曲と同じような結論に行き着いて嘆き叫ぶことになるのだろうか。


それだけ心の力が詰め込まれた作品だ、と今は大皿の上の楽しみとして取っておきたい。


音楽との触れ合い

僕は音楽がとても好きだ。

なぜなら音楽は素直な表情を見せてくれるからである。

文学や絵画も多彩な姿を見せてくれるが、その姿には表れない「皮肉」が含まれていることもある。

おそらく僕は音楽の、時間とともに移り変わる表情の豊かさ、楽しさを信頼してるのだろう。


そして僕はプレイヤーでもあった。

腕を上げたくさんの音が出せるようになる喜び、磨く楽しさも感じることができた。

音を作る面白さ、組み立てていくのもプレイヤーの楽しみである。


「良い音」に対しては聴く時も演る時も悦びを覚えていた。


楽しいと思っているのだが、どこか寂しかったような気がする。何もわからなかったのだ。

移り変わる表情も広がる風景も全てがボヤけて見えているようで、感動しているようで頭の中に何も残せていなかった。


そんな虚を感じていたら、ある時ふと初めて言葉の楽しさを感じた。

それは知識でもない、哲学でもない、構成でもない。描かれた風景が残す物語の面白さだった。


そうすると次第に、悔しさと理想の狭間の通りで絶叫しながら歩く彼の姿も、喪失に指先がチリチリとし目の奥が熱くなった彼の姿も、己の偶像とさまざまな人の姿を知った彼女が微笑む姿も、とても鮮明に見えるようになっていった。


音楽が作り出す物語。曲の中に散りばめられたシーンと触れ合うのは、自身の言葉なんだと心の中で深く大きく頷いた。



地獄

僕はなぜかよくわからないけど、生きることに強い執着をしている。

たぶん今まで生きていた中で1番求め続けていることだ。

死ぬのが怖いのかはわからないが、嫌なのは確実だ。

死んだらどうなるかはあまり考えないが、天国やら地獄やらはよく考える。

 

僕達が見ているこの世界は天国なのか、地獄なのか、どっちでもないのだろうか。

 

僕はここは地獄だと思う。

死ぬほどの病気に罹る人、会社の社長になって年商数億を稼ぐ人も、どうせ人は責任やら体力的限界、精神的限界やらに苦しめられている。ましてや実体も持たず自分自身にすら関係ない「情報」まで人を苦しめるというふざけた苦しみもある。

結局死ぬ苦しみも地獄だろう。ふざけてるほど苦しみは溢れている。

 

そんな気がするからこそ、今は目の前にある楽しさや幸せに感じるものは(他人を苦しめない限り)何でも貪っていいと思う。

美味い料理を身体に与え、音楽に心を許し、絵画に色彩を見出し、文学に想像を膨らませる。

何が悪いんだろうか。一瞬で姿も変わりゆく此れらのどこが虚無、フィクション、作り物なんだろうか。

 

どうせ続くこの地獄も楽しんでやろうじゃないか。

負けられない決心、生活は続いていく。

大人嫌いな芸術

最近のポップスミュージックや文章、バズるツイート等は若者の切実な訴え(のようなもの)が多い。

ちょっと意見がわかりやすいそのような若者の色々な力は「期待できる」という楽観的な見方をされている。

ただしそれはその若者の全てに対して「期待できる」ごく一部の面を褒めてあげてるに過ぎない。

そいつがまるで有能であるかのような認識が生まれている。

僕はここで1つそんな若者達に警鐘を鳴らしたい。

そのバズる意見や歌に「大人は〜」というニュアンスがどこでも含まれていることだ。

「大人に問題がない」ということを言いたいのではない。

せっかく1つの言葉に丁寧に形作っていくのに、そんな力無く無意味で馬鹿馬鹿しい言葉を使う、そしてそれに共感して「良いもの」であると誤認していることが腹立たしいのだ。


この「大人は〜」には推進力も洞察力も何もない「停滞」しか含まれていない。作者と受け取る者それぞれを奮い立たせる生きた熱量がまるで存在しない。


こんなものの何が「メッセージ」だと言えるだろうか。

くだらない共感に意識を奪われてしまっているのだったら、それはただの洗脳だ。

もちろんそこには今の自分の姿なんて存在しない。

大人を批判する余裕があるんだったら(本当はそんな余裕なんてないはずだが)、若者自身が自分の本当のメッセージを形作る努力をしてみたらどうだろうか。

そこにはほぼ全ての若者が求めている今の自分が投影されるはずなのだ。



期待をしない

「あなたには期待してますよ」

「期待しておこうと思います」

「これは期待できますね」

 私達はよく「期待」という言葉を耳にするし、口にする。

 まるでそれは陽気なふりをして人間関係に降りかかるが、僕はこいつを全く良いようには思えない。


そもそも「期待」とは何か。

僕はこれを人の怠惰や傲慢さが生み出したおかしな幻想だと思っている。

期待をしている時、私達はよく何もせず待ち構える。しかしその相手はあくまで空想であり、理想ともほど遠い。

たしかにそれは少しは甘味を感じて人の元気になることはあるが、それ自体には直接的なエネルギーが存在しない。

捨ててしまった方が現実を生きる私達の身のためになる。


だが、現実は非情であることは言うまでもない。その中で何を持てばイイのだろうか?

それは「希望」である。

己の望みをそこに詰め込んで自分を動かす動力源にすればいい。

期を待っていてはいつまでも結果などやってこないのだ。


「期待」を捨てて「希望」を持つ。

何かが見えて一気に体が動き出すはずだ。

アンパンマンのマーチ

何のために生まれて

何をして生きるのか

わからないまま終わる

そんなのはいやだ


この詩を目にしてメロディが頭に浮かばないものはいないのではないだろうか。

これは有名な「アンパンマンのマーチ」の一節である。


アンパンマンと聞くと、幼い頃よく見た幼児向けのアニメという印象である。ジャムおじさんにバタコさん、チーズやバイキンマンなど、可愛らしく朗らかな物語である。


この物語の主題歌の「アンパンマンのマーチ」はアニメのオープニングテーマだ。


この曲は素晴らしい詩とともに生きている。今を生きる人全てに聴いて、感じて、そして考えてもらいたい内容だ。



まず、この曲の大きなテーマが

「生きる」ということについてだ。

一曲を通して「生」の在り方を説き続けることで、強い意識を持たせてくれる。


1番では、命の輝きは瞬間的に、そして永遠のものであるようなことを教えてくれる。

「今を生きる」。

「今」という言葉では表しきれない時間は私たちは何を教えられた訳でもなく感じ取り、「過去」という膨大なデータに変えていく。

生きる中であなたは「今」という時間にしか存在しない。いのちの中の「今」は永遠だ。

命の陽は燃え続けるのである。



2番では「心の生き方」について教えられる。

「幸せ」「喜び」「悲しみ」「恐怖」「愛」「勇気」「夢」「元気」

これら全ては僕たち人が持ち合わせている。このほとんどが数値化されておらず、概念的なものであるが、僕たちは間違いなくこれらの存在を理解し、感じている。


アンパンマンは「優しい心」が表現化された存在であり、その心は「愛と勇気だけが友達」だ。

自らの身体(心)を悲しみを持つ人に寄り添い、分けてあげる。

これはキリスト教の愛にも通じるものがある。

無償の愛、そして自己犠牲の愛を頭のあんぱんで表している。


ただし、アンパンマンは神ではない。今を生きる者の1人であるから、彼を「宗教的な崇拝や信仰をするべき」というのも違う。

この詩が歌うのは、「心」は愛と勇気を持ち続ける努力をする事で1番大切な「優しさ」を持つことができる、という事だ。



どんな生命にもいずれ終わりが来る。

限りがあるのならば、笑顔と共に生きよう。

大きな敵が立ち塞がろうとも、

「汝の敵を愛せよ」と

言わんばかりにそこに生きる喜びを感じよう。


これがアンパンマンのマーチである。


こうしてみると、アンパンマンというヒーローは今までのアニメのヒーローの外見的カッコ良さ、強さの固定観念をひっくり返した、「真髄のヒーロー」だということがわかった。




一度壊れたもの

一度壊れたものは絶対に完全に元に戻らない。


あなたは一度は物を壊したことがあるだろう。

大切に使っていた物、雑に扱っていた物。様々な時間の共有を経て、その物は壊れたことだろう。


どんなに修復を試みようと、壊れる前の状態に戻ることはなく、修復歴が追加される。


では、人間はどうだろう。

怪我をすると人間は生命体としての働きから治す力がはたらく。擦りむいても骨を折っても、ある程度の怪我ならば元の状態に戻ってくれる。

なんて素晴らしい力なのだろう。(あまり怪我は負いたくはないが)


しかし、人間にも元に戻らないものがある。

それは心である。

私は一度心が壊れた人間だ。ふと世界が私を押し潰し、自らの世界でのみ生きたくなった。

その後、家族や友人など、様々な力が私を現実の世界に戻してくれたおかげでどうにか今生きている。


多くの人の力により私の心は修復されたのだが、どうしても私の心からは「壊れた」という記憶は消えないのである。


壊れた記憶とも共に生き、今何が自分を強く生きさせるかを考えながら生きてはいるのだが、確実に全ての行動があの壊れた時間と縁を持っている。


その縁は悪い方向に進むこともあるのだが、良い方向へ導いてくれることもある。


正直、私はなぜ壊れたのか、何があんな状態に追い込んだのかすら覚えてない。もしかしたら他人から見ても自分から見ても本当にしょうもない理由なのかもしれない。


ただ一つわかったことがある。心というものは一度壊れると絶対に完全に元に戻らないということだ。

絆という言葉

「絆」、人は強い信頼関係、温情が成立した時にその関係性をこう呼んでいる。

絆はたしかに素晴らしいものだ。2011年の東日本大震災等を筆頭に、ボランティア精神、助け合いの心を持って危機に立ち向かった。


大規模なものでなくても、個人間の関係で絆のようなものを目にすることはある。

ただし、本当の絆という言葉はそんなに多く目にすることはないのではないかと思う。


最近は絆の安売りが流行っている。

最近若者は普通以上の友好関係を築けば即ちこれを「絆」と呼び、ケラケラとその者同士その場で笑い合う。

さらに、あろうことか本物の「絆」かどうか判断するのは当人達であるはずなのに、第三者が「絆」という言葉を軽々しく評価の言葉として使っている。


これほど大量に偽物の「絆」が流通してしまったら、本物の「絆」を判断するのが難しくなってしまうのではないだろうか。


絆は簡単ではない。第三者がレッテル貼りする為の言葉ではない。


大事な生きる力を生む言葉、関係はその力を失わないように無駄遣いせず、大切に扱って欲しいものだ。




雑記 走り書き

最近、自分から何かを表現したい欲に駆られている。

それは光の素晴らしさを表現したいのだが、

2つの選択肢で迷っている部分がある。


①光の素晴らしさを分析するようにわかりやすくする。

②光そのものを表現する。


光を広げるにはどちらがいいのだろうか。

それとも対する闇を交える方がわかりやすくなるのだろうか。

これはなんとなく自分自身にも危険が訪れる気がするので辞めておこうと思っている。


どちらにしろ、どの媒体にも早く生きる力を生み出させるような表現をしたいものである。

耐える力

 少し前、人の群居衝動や生きる力についてブログで書いた。


僕はその時、偶然にも実家に帰って英気を養っていた為にとてもポジティブにその面に触れられた。


3週間ほど前にアパートに戻った。

その時にはかなり自信を持って生きられる気がした。


もちろん今でも信念というものは変わらないのだが、すでに忍び寄ってきているものがいる。


「孤独」が実家にいる時よりも近くにいるような気がしている。


呼びかける声が聞こえてくるのだ。

なんと恐ろしい奴らなのだろうか。


今度はコイツらに自分の力を吸い取られるわけにはいかない。


さあ、温かい鍋でも食べて今日も光を浴びよう。


ひとりと戦う

人は必ず群居衝動を持つ。

1人が最も幸せな人間などいない。


なぜそう断言できるかというと、これが人間の本来の姿であり本能だからだ。(医学的根拠がないのは申し訳ない。)



そういうと必ず、

「ひとりの方が幸せだ」、

「ひとりだと周りに気を遣わないで済むから良い」

だとか言い始める者がいる。


それはまだ良い群れを作れていないだけで、この後の集団を作るか見つけなければならない。


日本人の多くは幼稚園や保育園、保育所などに行き、最後には小学校という場が必ず用意されている。


ここまでの過程で初めて家族以外の「集団」というものを経験するのだが、

もちろんこの窮屈の経験だけではそれぞれの集団の特徴に合わず、幸せを感じ取ることはできないこともある。

むしろここで見つけられたら御の字だ。

そして中学以降、成人するくらいになるまで色々な集団を経験する。


もちろん、それまでの間で肌に合う集団を見つけられないこともあるだろう。

そういう者の多くは「集団の幸せ」をまだ感じることができていないのである。

そしていずれ「一人の方が良い」という固定観念に縛られ始める。



ここで、人間が得られる最大の幸せを100までの数で表す。


もし、あなたが肌に合う集団が見つけられなかった場合、その集団に属し続けて得られる幸せはたった50である。


だが、ひとりで過ごす「しか」ない人が得られる最大の幸せは85でしかない。

どんなにひとりで自由に旅やゲーム、料理や遊びをしてもそれでは得られないものがある。


肌に合う集団を見つけた時、そこで生まれ得る爽やかで温か、そして朗らかな感情は人に生命力を与える。

これは「ひとり」が絶対に手に取ることができない15の幸せに値する。



今が50である人は、重い鎖を切ってまずはひとりという世界に足を踏み入れてみる。


そこには沢山の集団が漂っているだろう。

入ってみること、そして抜けることには何も罪はない。「社会的責任」を重く考えすぎると人は壊れてしまう。


いろんな集団を試し、味わってみる。そうしてゆっくりと肌に合う集団を選んでいけば良いのだ。


ひとり暮らし、そして長いステイホームを経験した

「自称・ひとり好き」が辿り着いた結論は己の殻を壊すものだった。



幸せの定義

現代人どもよ、今日も頭を拗らせて悩みもがき、文句を言っていることだろう。


そんな貴方達は「酒を飲む」、「ゲームをする」、「つぶやく」、「騒ぐ」、「タバコを吸う」という後から考えると悲しくなることをして現実の頭から離れるだろう。


これを「ストレス発散」と勘違いして良いことだとしている者も多いことだろう。


そんな貴方に問いたい。

「あなたは幸せの定義がわかりますか?」

と。


「幸せの定義は人それぞれ」とかいう、人から聞いたそんな言葉に疑いを持たない人間もいるだろうが、こんな無責任な教えは負荷が大きすぎる。


本当の幸せは生命だ。生命力。元気。

これが人間という生命の幸せだ。


人間が生命である限りこの事実は不変である。

生命に力がみなぎること、生命を繋ぐこと、生命を続けること。

これが幸せなのである。


少しでもこの考えに違和感を感じた人がいるならば、あなたは相当危険な状態にある。


そんな人は美味いものをたらふく食え、木々がつくる新鮮な空気をいっぱい吸って日の光を浴びなさい。

元気を与えてくれる人をいち早く見つけなさい。

「心の寄り添い」なんかのまやかしに引っかからずに、真っ直ぐに「元気」を見つけなさい。


幸せを取り戻すことができたなら、あなたは闇から光に戻るための強い命綱を手に入れることができるだろう。


コロナ禍の闇を生き抜く光はあなたの中の光の応用力にかかっている。







人の光と闇

光と闇。想像する世界の光と闇の始まりはどうも無限遠に存在するようである。


人間世界の光と闇の光源(闇源?)も無限遠にあるようだ。


だが、その遠方に辿り着くまでには無数の人間が存在する。

闇側に存在する人間、光側に存在する人間。


光に存在する人間はどうやら闇に染まる人間より少ないようだ。


光は人に生命としての良い幸せをもたらし、今後に人としての強さを与える。

闇は時には人を破滅に追い込む可能性を持ち、人という命を壊す力がある。


人は己の芯のキャラクターの方向を考えることが少ない。それが故に若いうちは光と闇、それぞれに大きく揺さぶられる。



稀に自身の闇に気付き、周囲の人間を光に導こうとする者も居るが、そのような強さを持つ人間は闇の人間でも1%もいないだろう。


では、現実に世界では闇は淘汰されているのだろうか?

残念ながらそんな事は微塵もない。

己を光と偽る闇の者たちが厚い化けの皮を被り存在し、いつでも周囲を壊す準備をしているのだ。


それだけ闇は強大で光を蝕む力があるのだ。


この闇に負けないよう、人は光に気づかなければならない。

闇を間違えて選ばないよう、光を知っていなければならない。


今のあなたには光に気付ける力があるだろうか?


そして、あなたは他人に光を、何よりあなた自身に光を与えられる力を持っているだろうか?




人の光と闇

光と闇。想像する世界の光と闇の始まりはどうも無限遠に存在するようである。


人間世界の光と闇の光源(闇源?)も無限遠にあるようだ。


だが、その遠方に辿り着くまでには無数の人間が存在する。

闇側に存在する人間、光側に存在する人間。


光に存在する人間はどうやら闇に染まる人間より少ないようだ。


光は人に生命としての良い幸せをもたらし、今後に人としての強さを与える。

闇は時には人を破滅に追い込む可能性を持ち、人という命を壊す力がある。


人は己の芯のキャラクターの方向を考えることが少ない。それが故に若いうちは光と闇、それぞれに大きく揺さぶられる。



稀に自身の闇に気付き、周囲の人間を光に導こうとする者も居るが、そのような強さを持つ人間は闇の人間でも1%もいないだろう。


では、現実に世界では闇は淘汰されているのだろうか?

残念ながらそんな事は微塵もない。

己を光と偽る闇の者たちが厚い化けの皮を被り存在し、いつでも周囲を壊す準備をしているのだ。


それだけ闇は強大で光を蝕む力があるのだ。


この闇に負けないよう、人は光に気づかなければならない。

闇を間違えて選ばないよう、光を知っていなければならない。


今のあなたには光に気付ける力があるだろうか?


そして、あなたは他人に光を、何よりあなた自身に光を与えられる力を持っているだろうか?