男女の差?んなもんわかるかよ
男性と女性、女性と男性。
人間という生き物である以上、一生ついてくる分類である。
この2つは確かに異なる点がある。
特に顕著なのは「身体の構造」だ。
生物学的なものは特にわからないが、一般的には、男性は声が低く筋肉質、女性はその逆になりやすい。
(自身が男性である故、これ以上の差別化はやめておく。)
今回考えたいことは「思考」についてだ。
僕は生活している上で「男女で思考が違う」と言われることが多々ある。
普段の友達との会話や、恋愛話、仕事上での話など、その使われ所は多岐に及ぶ。
特に僕自身に多く関係するのは「仕事上の話」である。
学生であるゆえ、今まで経験してきた中心的な仕事(のようなもの)は、部活動やサークル活動になるが、
それでもそれなりに周囲と目標達成のために協力関係にあることから、これらを仕事と捉えることができるとした。
私達の生活は生まれてきたその時、いや、母親のお腹にいる時から性別が存在し、それを言い聞かせられている。そこからそれによって自分の性別を自覚し、数年経って行動に変化が現れる。
この行動をするときには「自分は男だ」「自分は女だ」という意識が固まっているため、行動はここから二分化されやすくなる。
これは至極普通の話だ。
ではここからはどうだろう。
あるシチュエーションを想像して僕の考えを述べていく。
ある日、数人の男女に「仕事」が舞い込んだ。この仕事には最適解が存在するが、その最適解は当人には伝えていない。
もちろん、この最適解は男女どちらにも尊卑がない内容である。
各々で思考し、内容をプレゼンして話し合いをして最適解を探り合う。
すると、ある女性(男性)からのプレゼンの後、男性(女性)からこんな感想が飛び出した。
「男性(女性)からの意見でとても良かった」
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このようなシチュエーションは割と存在すると思うが、
私はこの感想に強く疑問を抱く。
なぜなら、仕事上の最適解が存在するにも関わらず、男女での思考の違いのみで「良い」としているこの感想は、とても浅はかであり、その発言者の思考回路も読めてしまうからである。
この会議に必要な思考は「仕事上の思考のみ」のはずなのだ。
全員がこの思考を持って会議に臨めばより効率的に最適解に近づけるのは簡単に想像できる。
この発言者も「仕事上の思考」のもと、会議に臨んでいたはずだが、何故このような浅はかな感想を述べてしまったのだろうか。
もともと人間が「男女の思考の違い」を持って成長していくのは言うまでもない。
人間関係もこの男女の思考の違いを大元にしてある程度までは成長する。
先ほど述べたようにこれは幼少期から既に獲得していたものである。
だが、途中で別の思考を獲得していく。それが今回の「仕事」に関する思考だ。
しかし、以前に獲得していた「男女関係」によって、「仕事」に関する思考は構築しづらくなっている。
もともとの思考のプロセスがそうである以上、仕方のないことだ。一度はこの「男女」の思考を誰もが踏むのである。
だが、「仕事思考」を構築しなければ良い結果が生み出されないとわかった以上、そんなことを言ってはいられないはずだ。
切り替えをして新たな思考の構築に力を費やさねばならない。
その努力の結果として新たな思考回路を手に入れられるはずなのだ。
わかりやすく書くと、
仕事⇔男女
の切り替えスイッチである。
ここから分かるように、発言者は「男女の思考」から新たなスイッチを作る努力を怠っていたのである。
「男女の違い」の意識から逃れられず、人の思考の本質を見抜けない、言わば能力不足な人間になってしまった。
世の行き過ぎた性差別論者はどのように物事を考えているのだろう。
上のグループの発言者を見て「男女共同参画に努力している素晴らしい仕事人」とだけ捉えているようならば、
その行き過ぎた性差別論者に一歩近づいてしまっているのかもしれない。
そうならないよう、スイッチの構築の努力は欠かしてはならない。