努力を完成させる

人間誰しもたくさん努力をして生きている。


勉強、仕事、部活、サークルなどなど、色々な努力を経験してとりあえずの今がある。


とりあえずの今も何かしらの努力をしているはずだ。


ただ、努力するのは非常にしんどいものである。

元々できないところを自分自身で認め、できるように頑張る必要があるからだ。


どんな人間も少しはプライドがあるので、まずそこのハードルを越える必要がある。


これがスタート地点だ。

自分自身を認められたら割とがむしゃらになれる。それはできない自分が恥ずかしいと思うからだ。

ここから磨いてどうにか自己満足を得られるようにする。

そこまではよく見るタイプの努力の形態だ。


だが、「努力」は自分が認めるだけではダメで、他人から明確に答えを引き出せてようやくプラスの感情に変化するという性質を持つと私は思う。


「努力が報われた」瞬間とはいつなのだろうか?


そうあなたが思ったのはどんな時だったのだろうか?


他人が思う「努力」のハードルは非常に高い。

自分が思う「努力」など、本当は「努力」なんて言ってはいけないと思うほどだ。


何年かけて練習して磨いてきたものも、その輝きを放つための光源、スポットライトが当たらなければ人はその磨かれたものを「良い」と認めない。


相当辛抱強くなければならない。


だからこそ磨き続けられるものを見つけることが何よりも大事なのだ。


好きでいることと同時に、自分で磨き続けられると思うものを持つこと。


これが将来の選択になる。


と、私は進路に迷っている高校生の自分に説教したい。


お前は今何をしてるか考えろ、と言ってやりたい。




言語の吸引力

私達は常に言葉と関係を持っている。


人と話すのも、文字を書くのも、頭の中の描写も最後は言葉に表してまとめている。


「言葉から離れたい!」と思っても、この思い自体も言葉で構成されている。


そのくらい切っても切れない関係なのである。





「言葉」の意味を調べてみると、

・・・語、単語や連語

といった、とても単純で無味無臭な意味が出てくる。


だが、人類にはこの「言葉」の味気なさを感じさせないような、圧倒的な味や香りを持たせた言葉を放つ者がいる。


その者から放たれた言葉は人の意識を吸い込み、人の感情を操り、場合によっては人生を変えてしまうほどの力を持つ。


よくある言い方では「言葉は魔法」といわれる。



私は今までこの魔法の力を全く感じなかった。


どんな格言やことわざなど、言い伝えられてきた言葉を良い言葉だと頭の中に思い込ませ、「良い言葉な気がする」と刷り込んで生きてきた。 



悪く言えば鈍感であり、薄情な人間だ。

それでも正直「どうでもいい」と思っていた。


別に相手に話す時に誤解なく簡単に伝わればそれでよかった。


だが、この前番組でタレントが小説を書いてみる企画があった。

その小説を書いたタレント自身が冒頭を朗読し、評価を受けると言った企画だった。


ほとんどのタレントが「ストーリー」や「文章構成」のようなところで引き込もうとしていた。


しかし、1人だけ”最初の一文だけ”でその物語の世界観に引き込み、その続きを「読みたい!」と思わせる本を書いている人がいた。



私は、その”たった”一文の影響力がここまで大きいとは思っていなかったため、思わず「すげぇ」と声を漏らしてしまった。




言葉を上手く使う者はそれだけで魅力的である。しかもそれは容姿の魅力と違い、簡単には飽きない魅力である。



ようやくその素晴らしさに気付き始めた。


自分もそんな能力を身に付けたい!と確固たる意志を持った。









とは思ったものの、その力を身に付けるにはどうすれば良いのか、まっっったく見当がつかない。

そもそもこの歳になるまで言葉に対してそんな見方をしていなかった。

全く違う使い方のクセができてしまっている。


果たしてこのクセの矯正は可能なのだろうか。


もし、この「言葉力」の訓練をしている人がいるならば、その訓練方法をご教示願いたい。





















男女の差?んなもんわかるかよ

男性と女性、女性と男性。

人間という生き物である以上、一生ついてくる分類である。


この2つは確かに異なる点がある。

特に顕著なのは「身体の構造」だ。

生物学的なものは特にわからないが、一般的には、男性は声が低く筋肉質、女性はその逆になりやすい。

(自身が男性である故、これ以上の差別化はやめておく。)




今回考えたいことは「思考」についてだ。


 


僕は生活している上で「男女で思考が違う」と言われることが多々ある。

普段の友達との会話や、恋愛話、仕事上での話など、その使われ所は多岐に及ぶ。



特に僕自身に多く関係するのは「仕事上の話」である。

学生であるゆえ、今まで経験してきた中心的な仕事(のようなもの)は、部活動やサークル活動になるが、

それでもそれなりに周囲と目標達成のために協力関係にあることから、これらを仕事と捉えることができるとした。



私達の生活は生まれてきたその時、いや、母親のお腹にいる時から性別が存在し、それを言い聞かせられている。そこからそれによって自分の性別を自覚し、数年経って行動に変化が現れる。

この行動をするときには「自分は男だ」「自分は女だ」という意識が固まっているため、行動はここから二分化されやすくなる。



これは至極普通の話だ。



ではここからはどうだろう。

あるシチュエーションを想像して僕の考えを述べていく。


ある日、数人の男女に「仕事」が舞い込んだ。この仕事には最適解が存在するが、その最適解は当人には伝えていない。


もちろん、この最適解は男女どちらにも尊卑がない内容である。


各々で思考し、内容をプレゼンして話し合いをして最適解を探り合う。

すると、ある女性(男性)からのプレゼンの後、男性(女性)からこんな感想が飛び出した。


「男性(女性)からの意見でとても良かった」





このようなシチュエーションは割と存在すると思うが、



私はこの感想に強く疑問を抱く。



なぜなら、仕事上の最適解が存在するにも関わらず、男女での思考の違いのみで「良い」としているこの感想は、とても浅はかであり、その発言者の思考回路も読めてしまうからである。



この会議に必要な思考は「仕事上の思考のみ」のはずなのだ。



全員がこの思考を持って会議に臨めばより効率的に最適解に近づけるのは簡単に想像できる。

この発言者も「仕事上の思考」のもと、会議に臨んでいたはずだが、何故このような浅はかな感想を述べてしまったのだろうか。


もともと人間が「男女の思考の違い」を持って成長していくのは言うまでもない。


人間関係もこの男女の思考の違いを大元にしてある程度までは成長する。


先ほど述べたようにこれは幼少期から既に獲得していたものである。


だが、途中で別の思考を獲得していく。それが今回の「仕事」に関する思考だ。


しかし、以前に獲得していた「男女関係」によって、「仕事」に関する思考は構築しづらくなっている。

もともとの思考のプロセスがそうである以上、仕方のないことだ。一度はこの「男女」の思考を誰もが踏むのである。


だが、「仕事思考」を構築しなければ良い結果が生み出されないとわかった以上、そんなことを言ってはいられないはずだ。


切り替えをして新たな思考の構築に力を費やさねばならない。

その努力の結果として新たな思考回路を手に入れられるはずなのだ。



わかりやすく書くと、

仕事⇔男女

の切り替えスイッチである。



ここから分かるように、発言者は「男女の思考」から新たなスイッチを作る努力を怠っていたのである。

「男女の違い」の意識から逃れられず、人の思考の本質を見抜けない、言わば能力不足な人間になってしまった。



世の行き過ぎた性差別論者はどのように物事を考えているのだろう。

上のグループの発言者を見て「男女共同参画に努力している素晴らしい仕事人」とだけ捉えているようならば、

その行き過ぎた性差別論者に一歩近づいてしまっているのかもしれない。

そうならないよう、スイッチの構築の努力は欠かしてはならない。















音楽の楽しみ方

僕はよく音楽を聴いている。


好きなジャンルとかは特になく、ただ良いなぁと思う音楽を何度も繰り返し聴いている。


「音楽が趣味」

と言うと、

「どんな曲を聴いてるの?」

と聞かれる。


特に決まってない僕はその質問には答えを濁して返している。

この時僕は本当に音楽が趣味なのか、一瞬自分でわからなくなる。


ただ、自信を持って言えるのは自分なりの「音楽の聴き方」を確立していることだ。


よく音楽の良し悪しを歌詞で判断するか、メロディで判断するかという質問がなされている。


カッコつけてるように思われるかもしれないが、僕はメロディだけでも歌詞だけでも音楽は聴かない。

総合的に「作品」としての芸術を楽しみたいのである。


もともと音楽には基本の3要素がある。「メロディ」「リズム」「ハーモニー」の3つだ。

これが最低限存在しない限り、音楽としては歪みが生まれてしまうと思っている。

(日本人はメロディとハーモニーをよく気にするが、リズムは何故か考えられないことが多い気がする)


そして、その出来上がった音に「歌詞」という文学的な要素が組み合わさって現在流行っている多くの楽曲が作り出されている。


ここからはこれらの下地がどうやって着色されていくのかを楽しんでいく。


まず、「音色」である。

使われている楽器、その使い所や音色の変化、歌ならば歌声などがあるが、それらの調和、バランスや指向性にその作品を手がけた方のセンスを感じることができる。ギターの「キュッ」というノイズや歌手の小さなブレスも面白い。

音源を打ち込みにするのか生演奏にするのか

その変化の使い方を考えるのも面白い。



次に「構成」である。

これはコード理論にも近いものがあるかもしれないが、楽曲を自然にかつ大きく見せるために流れの中で展開していくのを聴くのが面白い。

初めて聴いた曲で後半から急に裏切られたような感覚に陥ると、どうしてそうしたのかを考えるために何度も聴いてしまう。


最後に「文化的な価値」を考えるのである。

「このリズムは〇年代のどこの国でポピュラーだった音楽をリスペクトしてるんだ」とか、「この作品で日本人の頭の中に新しい感覚をもたらしてるんだ」などなど、

これから流行る音楽や、これまでの音楽とのつながりを妄想して楽しんでいる。


今の所の音楽の聴き方はこんな感じだ。

今後もこれらの聴き方が失くなることはないと思う。


だが最近、音楽に対する視点はまだまだこれだけではないんじゃないかと思い始めた。

特に「アニメ文化」や、「アイドル文化」など、他の文化によって売れる音楽が変わっている事実を見ると、まだまだ楽しみ切れていないなと思うところがある。


音楽という途轍もなく大きな存在に対して、もっと多角的なアプローチをとっていければ、より人生は楽しくなるのではないだろうか。


もしかしたらこれは音楽に限らず、人間が生み出した学問や芸術など、すべてのものに対して言えるのかもしれない。

大学生の主張(?)

 初めて自分で書いた文章を人に公開してみようと思い、なんとなく始めてみた。


 最近よく「たしかに〜」「それな!」「わかる〜」「わかりみが深い〜」と、沢山の同意の言葉が若者の中では飛び交っている。(死語なのか死語でないのかは置いといて。)


もちろん、その世代の若者である僕も時々この言葉を使うことがある。

なかなか便利な言葉だ。簡単に人と共感(のようなもの)を交わすことが可能になり、とりあえず会話の空気を保留して次の話題に繋げる時間稼ぎができる。


学生達がそんな言葉を使うのは納得だ。「流行り言葉」と言われる単語は全て使い勝手の良い【当たり障りのない】言葉なのだから。


...と、ここまで書いてみたところかなり批判的な視点となっているようだが、このブログではこんな胸糞悪いことを書きたいのではない。


このブログではそんな「流行り」や「流れ」のままによくわからなくなってしまった「自分の思考」というものをどうにか「自分の言葉」に書き下ろして、自分を表現していきたいと思っている。


僕自身理系学生・スマホ世代で本もほとんど読まないという、語彙が足りない人間であるため、最初から表現がうまくいくとは思っていない。

まあ、そこは大目に見ていただきたい...


とりあえず次の投稿から本格的に始めてみようと思う。