信頼を見つけるアンケート
今回はあなたの今までについて質問してみたい。
①あなたは今まで(自分を含む)誰かの利益を考えたことがありますか?
②あなたは今まで(自他問わず)先の将来や未来を少しでも考えたことはありますか?
③あなたは今、誰の未来について深く考えてみたいですか。
④あなたは今までの人生の中で、誰について考えるのに最も時間を使いましたか?
⑤全人類の中で、誰が1番あなたのことを考えている(もしくはわかっている)と思いますか。
あなたは誰を1番大切に考えているのでしょうか。
苦しみの種類
普段生活していると「辛い」「苦しい」「キツイ」という言葉が漏れることは多い。
そう思うのは至って普通のことで、人間弱音を吐かないなんていうのはほぼ不可能だ。
今回は辛さ、苦しさを考えてみる。
人生を進んでいくと誰しもが辛いと思うことがやってくる。
その出来事は人それぞれだとは思うが、僕は辛さには2種類あると考える。
「壁」と「沼」である。
「壁」はよく苦しみの代表例で登場する。
「神様はどんなに高くても乗り越えられる壁しか用意しない」
というのは啓発の常套句だ。
壁は一本の道を進もうとしたところに突然ドンと現れるイメージだ。越えることがゴールへの道程の1つである。
「沼」は道には登場しない。沼は開拓されていない自然の中に突然現れ、ハマった迷子を深い底へと陥れていく。
足掻けば足掻くほど深く沈み、体力を奪われる。ほとんどの場合助けを呼べなければ抜け出すことができない。
抜け出すことができたとしても沼にハマることはゴールへの道筋の1つではない。
あなたの辛さ、苦しさはどちらだろうか。
「壁」だと思った人は幸運である。
その辛さは確実にゴールへの道程であり、まだまだ道はその先続いている為に安心できるだろう。
対して、「沼」だと思った人は相当辛いだろう。
辛く先が見えない状況は絶望へと直結する。
それでも生き続けなければ偶然通りかかる通行人を呼び止めることができない。
抜けることができたならば確固たる意思を持って道を選ぶか、自身が開拓者となることができるだろう。
沼で鍛え抜かれた足腰で壁をぶち壊すことを考えて耐え抜くしかない。
あなたの「辛い」の一言はどれだけ重みのある言葉なんだろうか。
不自然な感情
夏が終わり夜に落ち着きが返ってきた。
それと同時に他人の熱や生命力が僕から遠ざかっていた。
大学社会から遠ざかって1年、サークルという狭い集落での唯一の役回りもこの夏で終えた。
そうすると僕はいよいよ何の社会にも属していない孤独な人間になった。
孤独というと少し聞こえが綺麗だが、ただ社会的能力を失っているだけである。
この1ヶ月、僕はずっと1人で過ごしていた。
2、3度だけ人と会う機会があったが、すぐに体力が切れてシャットダウンしてしまっていた。
どことなくコミュニケーションもぎこちなく、会話に面白みを感じない。言葉を吐き出し返りを待つだけだった。
ある夜、大学に入った当時や高校時代が急にフラッシュバックした。人と会話して時間に際限なく楽しんで面白みを感じている。
誰かの話に共感し、自分の世界をオープンにする優しさがそこにはあった。
思い返すと今の自分には優しさが失われている。他人を思いやり奉仕したいという欲求がどこを探しても見当たらないのだ。
孤独は優しさを消し去る。
というより、優しさは一人で呼び覚まされる自然な感情ではなく、人間関係が生まれて初めて現れるもの。
優しさを欲する人はおそらく僕には近付いてこない。なぜなら僕自身、優しさを生み出す方法を忘れてしまったからだ。
居るはずもないが、この悲しい矛盾をぶっ壊しにくる人間が現れてくれることを掠れた声で願い続けよう。
不自然な感情
夏が終わり夜に落ち着きが返ってきた。
それと同時に他人の熱や生命力が僕から遠ざかっていた。
大学社会から遠ざかって1年、サークルという狭い集落での唯一の役回りもこの夏で終えた。
そうすると僕はいよいよ何の社会にも属していない孤独な人間になった。
孤独というと少し聞こえが綺麗だが、ただ社会的能力を失っているだけである。
この1ヶ月、僕はずっと1人で過ごしていた。
2、3度だけ人と会う機会があったが、すぐに体力が切れてシャットダウンしてしまっていた。
どことなくコミュニケーションもぎこちなく、会話に面白みを感じない。言葉を吐き出し返りを待つだけだった。
ある夜、大学に入った当時や高校時代が急にフラッシュバックした。人と会話して時間に際限なく楽しんで面白みを感じている。
誰かの話に共感し、自分の世界をオープンにする優しさがそこにはあった。
思い返すと今の自分には優しさが失われている。他人を思いやり奉仕したいという欲求がどこを探しても見当たらないのだ。
孤独は優しさを消し去る。
というより、優しさは一人で呼び覚まされる自然な感情ではなく、人間関係が生まれて初めて現れるもの。
優しさを欲する人はおそらく僕には近付いてこない。なぜなら僕自身、優しさを生み出す方法を忘れてしまったからだ。
居るはずもないが、この悲しい矛盾をぶっ壊しにくる人間が現れてくれることを掠れた声で願い続けよう。
ちょっと元気が出た。
絶対に人間には限界はあるものだ。
「人間に限界なんてない!」なんて教え込んできた大人達、よくもやってくれたな。
去年の秋頃から僕は完全に潰れていた。わがままだと言われるが、その時していたことが全くやりたくなくなっていた。
この状態から絶対に抜け出せない面倒な人間は本当に人から良く思われない。
当たり前だ。
僕もそんな人間が目の前に現れたら絡みたくない。だるい。
そんな潰れた日から約1年が経ち、ストレス発散という名目で僕はこのブログでたらたらと書き始めた。
思いの外これが僕に効果があったようである。
我儘を我がままに書き連ねられるとはこんなに気持ち良いものかと、若干の背徳を感じながらも書き続けている。
ちょっと気分が明るくなったおかげか、最近は周りの人と仲良くしていた昔を思い出すようになった。
最近は何をしてるのか、何を思って生きているのか、何を見たいと思っているのか
ひとりが好きな自分が他人に対してこんなことを思うなんて、なんだかんだエネルギッシュで力強く地面を蹴っていた自分も周りも好きだったんだろう。
その人達がどんな道を辿ったかはわからないが、今新しい走り方を見つけているか、それを見つけようと一生懸命さを楽しんでいる事を願いたい。
最近新しい走り方をどうにか見つけ出せそうな気がしている。これなら遅くとも走り続けられそうである。
この発見は紛れもなく周りの人間の記憶が助けてくれたからである。
ひとりしか入れない狭苦しさを嘆き続けるなら、この空間をとことん面白くして何なら個展にしてやろうと思っている。
どうもこれが自分なりの走り方らしい。
これが周りの人に伝われば最高だろうな。
妄想を膨らませながら今日もひとりを彩るために絵具や言葉、音楽を買い出しに行く。
感動ってポジティブなの?
僕は東北の田舎出身である。
もし東北から関東、さらに首都圏に向かうには那須高原という隔たりを越えて行かなければたどり着かない。
現在住んでいる場所は関東になったが、引っ越す前も今も景色はほとんど変わらない。
僕には首都圏の景色は完全に「非日常」なのである。
高いビル群にガラス張りの建物、整えられた並木に電光掲示板の数々。
当たり前のようにそれが建っているその事実にどう頑張っても驚きを隠し切れないのである。
一度、夜に東京から実家に帰る機会があった。
俗に言う「東京の夜景」に初めて触れたのである。
おお、これが噂に聞く都会の夜景かぁ
これを見て「キレイ〜」って言う人も沢山いるんだろうなぁ
なんて冷静に捉える自分も居たのだが、
自分はそれより何よりも、どうしようもない程虚しく感じたのである。
確かに綺麗だ。綺麗に磨かれ作られた景色が綺麗に光ってる。間違いない。
記憶にも残ってる。感動したから脳に景色が塗り付けられたんだろう。
でもなんだろう。この景色の説明をする時、明るい顔で元気に魅力を伝えられると思えない。
「虚無」「儚さ」「一生ついてくる不足感」「弱さ」
言葉に表してみるとこんな事しか出てこないのだ。
せっかく景色を見れたのに、なんだか憂鬱な気分になった。
元気削がれるなら「夜景は良い」みたいな安直な感動を押し付けないで欲しかった。
帰った後の汚い居酒屋の暖簾に人生で初めて充足感を覚えてしまった。
スポーツのファン
僕はF1(自動車レースの最高峰)のファンである。
F1には約20人のドライバーがいて、年間を通して最速の称号を目指し闘っている。
メーカーも己の技術力の高さを示すために日々試行錯誤し、0.001秒を削っている。
その戦いに勝利したただ1人のみ、チャンピオンの称号が与えられるのだ。
F1は昨今、ルイス・ハミルトンというドライバーが3年間(6年間で5回)、メルセデスAMGというメーカーが年間チャンピオンを6年間防衛し、あまりの圧勝劇継続に
「つまらなくなった」
と言われている。
何ならメルセデス(ハミルトン)が失敗して壁にぶつかったなら、観客が歓喜の歓声を上げることもあるくらいだ。
2018年、僕は人生で初めて生でF1観戦をしに三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットを訪れた。鈴鹿市全体がお祭りで、特にサーキットには10万人以上の総来場者が居て、屋台やチームグッズなど、「モータースポーツの祭典」という言葉がピッタリの空気だった。
当時の僕は、ハミルトンではないある1人の選手のみの活躍を応援していた(つもりだった)が、
この日を境にあることに気付く。
レース前日の夜、ドライバー達が特設ステージでのインタビューイベントがあった。
数十メートル先に命をかけて最速を争う20人の天才ドライバーがいる。
その背中はどのチームのどのドライバーも圧倒的な力強さを感じ、気付けば全ドライバーの虜になって大声で応援していた。
そして最後に現れたハミルトンには、圧倒的なスター性や生き様やファンサービスなども相まって、完全に魅了されてしまった。
あの時、一番格好良かったのは間違いなくルイス・ハミルトンだった。
特定の選手を応援するファンではない。
僕はF1というスポーツが好きなんだという事に気付いた。
このスポーツで戦う全ての選手が最高の結果を残せるよう、1ファンとして応援し続けたい。
そう思うようになってから、F1の素晴らしさに心を預けられるようになった。
初めてスポーツに感動できた。
波に揺れる
「最近レベルアップしたことは何だろう?」
と、この3ヶ月は頭を悩ませることが多かった。思えば今の自分はふわっと浮かんできた抽象的な感覚から、己の「能力」に形作るまで
全部セルフプロデュースをしなければならない。
自己評価するにもめちゃくちゃ疲労が溜まる。形に残っているわけでもないからだ。言うまでもないが、そんな自分の微細な変化を誰かに評価されるわけでもない。
ただ自分を含む誰かに評価されないとやってられないし、何か視点を失いそうでまずい気がするので、わざわざ振り返りの時間を作っている。
そんな日々を過ごしているが、最近気付き始めたことがある。
どうも自分には「新しいものを取り込みたい期」と「取り込んだ物を安定させる期」の大きな波があるということだ。
両者が同時に訪れることはなく、特に後者の期間はかなりの安定が訪れないといつまでも別の要素を更新しない。本当に受け付けなくなるのだ。
新しい感覚に触れてそこをぐーんと伸ばす期間もあれば、盲目的に進む直線的な期間。
めちゃくちゃ不安定で効率はとても悪いが、
自らの気付きの快感を得たのは大学のアクティブラーニングではなく、この学びだった。
娯楽の付き合い方
娯楽の付き合い方
学科が怖くなった
私は今とてもとても悩み続けている。
それは自らの拒絶反応と社会からの拒絶反応を同時に感じているからだ。
私は幼い時から自動車が大好きだった。
モータースポーツが好きになり、車に乗るのも見るのも好きだった。
大学は色々な人がよく言う「仕事があるから」を理由に理系の学科に進学した。車も好きだし。
だが、もともと数学は大の苦手で計算も下手ならば数学的思考のかけらもできなかった。
理系の勉強が元から好きではなかった。
最初の間はどうにか誤魔化し誤魔化しで生きてきた。(どうにか理解できるギリギリだった)
だが、苦手なことをもともと得意な人が多い世界で戦っていこうにも精神的苦痛が大きくなり、上手くできない自分に苛立ったり、安易な理由で進路を選んだ高校生の自分を恨んだりした。
「この後の人生この世界で生きていけないんじゃないかな」
「自分の得意で好きなことはもっと違うものもあった訳だしそれを選べる道もあったのではないか」
と悩んでしまった。
ある日、学科のセミナーがあった。そこではその学科の卒業生(社会人10年以上)が学生に向けて仕事内容などを話された。
質問の時間になって、自分は思い切って「学生時代までで悩んだことはありましたか?」と質問してみた。
そこの答えは私を沼に引きずり込んだ。
きっと周りはある程度順風満帆な生活を送ってきたに違いない。
レールの敷き方を説明書通りに組み付けられた人が多いのだろう。
説明書を読むのも苦労するようではレールを敷くことも間に合わない。
完全に脱線してしまったのだ。
私の思った行き先はどこなのだろうか。
私は行き先が全く見つからないまま、脱線した最後の惰性すらも失ってしまった。
そんな使い物にならない車両はもう社会には要らない。
このまま廃車の道を行くしかないのだろうか。
まだ長い人生、そんな道は走りたくないのに。
TKの時代
先日、小室哲哉氏が約2年ぶりに音楽シーンに帰ってきた。
言わずと知れた天才アーティストだが、ここでは新曲「Route246」を聴きながらゆったりと感想を述べていく。
まずイントロからシンセの音色が鳴り響き、転調からキーボードの強烈なアタックが追加される。
これでもかというほど特徴的なTKサウンドを鳴らした後、主題のメロディが聞こえてくる。
メロディと対になる旋律を置かずにメロディに全注目を集め、メロディのインパクトを強烈に残している。一度全曲を聴いたらしばらく頭から離れなくなるほどだ。
Bメロは次第に迫り上がる音程に、裏切りの連続を感じさせるとともに、またやってくる主題のメロディに期待を膨らませる。
サビに来た。強烈なキーボードとパーカッションのアタック音に力を感じ、転調して解放される。
落ちサビからラスサビにかけて、これでもかと言うほど主題のメロディを聴かせ、一気にゴールへ向かう。
決してメロディを邪魔しないこの構成はTKサウンドの特徴の1つ。
「小室進行」とやらもほぼ曲の全体で聞かれる。
Get Wildをよく弾くバナナマン日村さんにも是非弾けるようになってほしい一曲である。
とまあ、それっぽいことを書いたところで
この曲を聴いた人はどこか「懐かしい」と感じた人も多いのではないだろうか。
懐かしいと感じるのは忘れていた以前の時代を思い起こさせるからである。
小室哲哉ブームだった1990年代。彼の曲を聴いたことがない日本人はほとんどいない。
さらにその時代を生きた人の子供である私たちも懐かしいと感じる。
親が聴き、テレビで90年代の映像が流れることで、生まれてなかったわたし達にもその存在感を残している。
TKブランドとも言える音楽は日本の音楽シーンになくてはならない存在となっていた。
時代は移りゆくもので小室氏といえどもヒット曲を量産し続けることは容易ではなかった。(音楽的な理由ではない部分があるというのも難しい)
音楽活動は続けていたが、2018年の報道をキッカケに突如引退を宣言する。
そして約2年が経ち復活をした。
この2年という年月は私たちの中のTKサウンドへの「期待」を静かに増幅させていたのかもしれない。
復活のサウンドはとてもたくましく、強烈であった。
日本の文化がまた1つ動き出したことに嬉しくなった。
死
今回は命に関わるかなりセンセーショナルな内容となりうるので、ご了承願いたい。
今日、また有名人が1人自ら命を絶った。
近日は有名人の「自殺」というものが増えてしまっている。
原因はSNSによる心的外傷だとかなんだとか。
死のニュースが目に飛び込むたびにunbelievableであり、ショッキングである。
少なくともまともな人間にはプラスの感情は生まれないものだ。
そしてネット上ではあーだこーだと議論が始まり、ギスギスしたタイムラインと不毛な会話が無限に続く。ネット上では結論など出るはずがないのに。
その光景もまたストレスである。
私は両親にずっと強く言われ続けてきたことがある。
「何があっても死を『良い』と思うな」と。
モータースポーツを趣味としている私は、かの「アイルトン・セナ」の最期を知っている。
彼は伝説的アスリートであり、ブラジルの国民的英雄、そして日本でもスターであった。
彼がイタリアから天に旅立ったことを知った時、英雄的人生に少しだが「美」を感じた。
だが、このエピソードを知ったと両親に言った時の反応は未だに忘れられない。
「死」は何があっても良いものではない。
それは周りの人間を悲しませるからだろうか
それとも自分自身のこれからの楽しみを消してしまうからだろうか
おそらくこの言葉は天寿を全うする寸前までわからないことなのだろうが、
この言葉の真意を理解するその時まで
私は強く生き続けなければならないと思った。
ハモネプを見て思った事
私はアカペラという音楽ジャンルを大学に入ってから始めた。
基本的には5〜7人までくらいの少人数で、楽器を使わずに演奏する音楽だ。
アカペラの主な演奏曲はもともとあるバンドスタイルの曲やさまざまな有名曲をアカペラ用にリアレンジされたものが多い。
先日放送された「ハモネプ」が特にアカペラでは有名であろう。
この中でその「アカペラアレンジ」についてとても考えることがあった。
音楽には、俗に言う「音楽理論」と呼ばれるものがある。
これは、「一般的にこうすると気持ちいい」とされる音の並びを具体的に表したものだ。
それを飛躍させると「コード理論」というものに行き着く。
コード理論は、A-majorやB-minorなどの和音をどう並べていくか...というものを表したものである。
近年はコードについての理解が以前よりも認知され(ピアノ弾いて快感を感じる人が口に出したからかしら)、YouTubeでもコードについての動画を出しているYouTuberの方も沢山いる。
もちろん、勉強すれば勉強するほど色々なパターンを覚えるので、曲をアレンジしたり作曲する際には困らなくなる。
そして、昨今これについての学問が学生アカペラでも技術的に高度なレベルに到達しているのだ。
難しいジャズ理論からの応用で13度の音や11度の音を積み重ねて...
詳しく勉強していない私は考えるだけで頭が破裂しそうになる。
だが、私はこの世界に何となく違和感を感じるのだ。
そもそもアカペラのアレンジは何の為にするのだろうか。
これは
「音楽ジャンルとして少しずつ一般的に浸透してきたアカペラが次のステージに飛躍するために必要なことは何なのだろうか。」
ということへの答えにもなると思う。
現在のアカペラに必要なのは「曲芸的」な技術ではなく、「芸術的」な美しさなのではないかと私は思う。
その音楽を聴いて感情がどう動かされるのか、言葉に表すまえに起こる心情の変化は生み出されるのか。
惹かれる魅力はあるのか。
これは人前で何かを見せる人間すべてに言えることであるが、
私たちは絵や本、音楽に触れる時、「難解さ」を求めていない。
難解さは存在しても良いが、その奥にある「美しさ」を求めているのだ。
だからこそ、芸術に携わる人間は色々な美しいものに触れて
「何が美しいか」「何が美しいと『思われる』か」など、
「美しいもの」を学ぶ必要があるのだ。
学んだ上でそれを体感して具体的に何が良いのかを説明できなければ、それは学べたとは言えない。
形に表さなければ表現の成長には行き着かない。
アカペラが次のステージに飛躍するために必要なものはなんだろうか?
それはアカペラに触れる者自身の感性の成長に他ならない。